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映画『慶州(キョンジュ)-ヒョンとユニ』

映画『慶州(キョンジュ) ヒョンとユニ』− 疲れたわたしたちは“記憶”に浮遊して癒される

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【うるおい女子の映画鑑賞】 第65回『慶州(キョンジュ) ヒョンとユニ』(2014・韓)

 

「女性」の視点で映画をみることは、たとえ生物学的に女性じゃなくても日常では出会わない感情が起動して、肌ツヤも心の健康状態もよくなるというもの。そんな視点から今回はヨーロッパ等で高く評価されているチャン・リュル監督の『慶州(キョンジュ) ヒョンとユニ』(2014・韓)を紹介します。

 

 

 

|ストーリー

 

北京で大学教授をしているチェ・ヒョン(パク・ヘイル)は、親しい先輩の葬式のために久しぶりに大邱(テグ)へやってきます。ふと、7年前に先輩と旅した慶州(キョンジュ)のこと、そこで訪れた茶屋の壁に描かれた春画のことを思い出し、北京へ帰る前に慶州へと脚を運ぶことに。

 

 

小高い山のように盛り上がった古墳が並ぶ懐かしい慶州の街並み。茶屋も昔のまま存在したものの春画はなくなっており、茶屋のオーナーのユニ(シン・ミナ)によると、画は前オーナーのときのもので客がからかうので壁紙で隠してしまったとのこと。その後、ヒョンはソウルから呼び出した後輩女性と再会するものの、過去の衝撃的な事実を告げられることになります。

 

 

 

|慶州でのデイドリーム

 

白昼夢のような映画。そんな映画を2時間25分も観ていると、何が現実で、何が思い出で、何が事実で、何が妄想で、誰が生きていて、誰が死んでいるのかがわからなくなってきます。

 

 

親しかった先輩の“死”をきっかけに始まるこの物語は、死と生、過去と今、記憶と現実がじわりと混じり合った濃霧のような慶州という街に、本能的に癒しを求めて自ら呑み込まれていく男、ヒョンのデイドリームのようなのです。

 

 

 

|記憶に逃避する男を現実に引き戻す“声”

 

劇中ではたくさんの死が登場しますが、そのどれもがヒョンが目撃したものではなく、人から聞いた死、つまり誰かの記憶の中の死。本当は死んでないかもしれないし、あるいは実際には違う死に方をしているかも知れません。

 

 

記憶の中で人は生死を超越した存在になるもの。さっき話をした人も、7年前に話をした人も、目の前から消えてしまえば同じ記憶の住人です。そして、記憶の世界では人の生死は超越され、過去と今は混ざり合い、事実の輪郭はぼやけて曖昧なものになっていくものです。先祖が眠る古墳の街、慶州。その場所は、生死、時間、事実を変幻させる記憶そのもののようで、そこで自由に夢遊することで、ヒョンは現実の生活の辛さ、絶望からの逃避をしているように見えます。

 

人から伝聞した死からは、痛み、恐怖、血、肉体の生々しさが排除されます。そして、どこか詩的で、ミステリアスで、美しいことすらあり、現実世界に絶望した人間はそれに吸い込まれてしまうあやうさもあるものです。何があったかは知らないけれど、ヒョンは現実に絶望を抱いて生きている男。でも、この世に体だけを残して抜け殻のように生きているかのようです

 

 

そんなヒョンを心地いい記憶の世界から現実へと引き戻す、ある“声”が登場します。その静かで美しい響きは、彼が生きるべき現実を早朝の凛とした空気とともに連れてくるのです。記憶の世界を主人公と一緒に浮遊させられる、心地よくも、あやうさを秘めた本作。記憶の世界に癒しを求める人間の弱さやセンチメンタリズムを肯定しいざなってくれる美しい白昼夢を、ぜひ劇場で体験することをオススメします。

 

 

『慶州(キョンジュ) ヒョンとユニ』

2019年6月8日(土)~ 東京・ユーロスペース 神奈川・横浜シネマリン・京都 出町座

2019年6月9日(日)~ 長野・上田映劇

<配給:A PEOPLE CINEMA


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